[書評]城下の人:石光真清


 石光真清(まきよ)の手記4冊の1冊

石光真清は明治元年、熊本に生まれ、昭和17年に没する。

その間、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争、ロシア革命を体験する。

最初に手に取って読んだのは2冊目。日露戦争に至るまでの清国でのスパイ活動を綴った手記。

まるで日本版007の様な話が、石光真清の実体験である事がとても興味深く、4冊全てを手に入れて読んだ。

1冊目の城下の人は彼が生まれてから日清戦争を経てロシア留学を志すまでが書かれている。

石光家の兄は父が教育熱心で、先進的学問を学ぶべきだとして「先進教育」の塾に通い米国人から英語も学んだ、進歩派だった。

弟の真清と真臣は皇道精神を基調にし、結髪帯刀を塾則にもつ塾に通っていた。

世の中も守旧派を古いと嘲り散髪略服脱刀勝手たるべしとする者、日本を守らねばならぬと結髪帯刀を固持する者に分かれていった。

父の言葉

そんな中真清が8才の時の出来事が記されている。

敬神党(神風連)の先生に会い加藤清正の事を学んだ事を嬉しそうに父に話した真清を、洋学生の兄が「時代後れの教育を受けているので感心することも時代後れだ」と苦笑する。

そこに父親が割って入る。

とても興味深い内容で、150年経った今でも通用する内容なので少し長いがそのまま引用する。

以下引用

洋学をやるお前達とは学問の種類持ちがているし、時代に対する見透しも違うが、日本の伝統を守りながら漸進しようとする神風連の熱意と、洋学の知識を取り入れて早く日本を世界の列強の中に安泰に置こうと心掛けるお前達と、国を思う心には少しも変わりがない。前に言った林桜園先生はこの人達の精神の基を礎いた方だが、非常に博学な学者だった。実学派の人達からも敬意を献げられておられるのだが、先生が亡くなられてから、いつとはなしに先生を頑迷な国学者だ漢学者だと批判する人が多くなった。進歩を急ぐの余り、そのような事になったものと思う。桜園先生はご自身でもオランダ語に精通しておられ、その教えを受けた人達は二千人を超えているとのことだ。蘭書の講義もし、兵学、科学に力を入れておられた。ただただ神明の加護を願い、結髪帯刀を主義とする様な、そんなことは教えられなかった。その後、政府が世界の情勢を検討された結果、進歩を急ぐ政策を促進するにつれて、この一党がうとんじられるようになり、頑迷だ、固陋だと批判される始末となった。それも無理は無い。政府では広く世界に眼を開いてアメリカ、イギリス、フランス等の各国の事情を実地に調査した結果、今までのようにオランダの書物だけに頼って外国の事情を狭く見てきた人達と自然に見解を異にしてきたのだ。こうなって来ると、不幸なことだが、神風連の人達の中には急進派に反対するの余りに、徒らに新政府を批難する様な風潮が生まれてきたし、急進派にもまた神風連を時代に盲目な人達として嘲笑う様になったのだ。けれども国の将来を思う心は同じだ。お前達が洋学をやるにしても、あの方々の立派な人格を見習い、日本人としての魂を忘れない心掛けが大切だ。桜園先生がよいとは言わないが、お前達にその心掛けが必要だという意味が分かってくれれば良い。いいかな。今後はあの方々を軽蔑する様なことは謹みなさい。


いつの世にも同じ事が繰り返される。時代が動き始めると、始めの頃は同じ思いでいるものだが、いつかは二つに分かれ三つに分かれて党を組んで争う。どちらに組みする方が損か得かを胸算用する者さえ出てくるかと思えば、ただ徒らに感情に走って軽蔑し合う。古い者を嘲っていれば先覚者になったつもりで得々とする者もあり、新しいものと言えば頭から軽佻浮薄として軽蔑する者も出てくる。こうしてお互いに対立したり軽蔑したりしているうちに、本当に時代後れの頑固者と新しがりやの軽薄者が生まれてくるものだ。これは人間というものの持って生まれた弱点であろうな」

そして世の中の対立は一層過激になり、10才の時真清は戊辰戦争に遭遇し、西郷隆率いる薩群が官軍に殺されていく様を目の当たりにするにする。

朝鮮人の同期生

もう一つ興味を引いたエピソードが記されている。

臨終の間際に軍人になると伝えた真清に対し、志を曲げるなと伝えた父の言葉通り、真清は士官学校幼年生徒隊に進学する。

真清には「今なお胸中に生きている同期生」と表現する朝鮮人の同期生がいた。

彼の言葉を借りれば「朝鮮が弱小国で、清国からは属国扱いを受け、ロシアからは侵略の脅威のもとにあった頃」だという。

生まれつきの才能があり、多感な少年だったと真清が言う、朴裕宏は親日派の家柄で派遣留学生として日本で学んでいた。

当時の同級生は彼に対し「日本だっていつ君の国とおなじ境遇になるか判らない。清国とロシアの脅威を受けている点では少しも違わない。海を一つ隔てているだけじゃないか」と励ましていたという。

士官学校に進んだ明治20年の3月、政略上朝鮮に帰化し高官の地位に就いたモルレンドルフというドイツ人が学校に参観に訪れた。

朝鮮使節が自国の留学生に激励を与えるのは当然のことだが、この時全校生徒の前に呼び出されドイツ人高官から激励を受けた朴少年は、その夜寝台で声を上げて泣いたという。

真清は「朝鮮人として忍び得ない屈辱を感じたのではないか」と回想する。

そして朴少年は間もなくして寝台の上で小銃で自害する。 

晩年真清は日本に併合されていた朝鮮の独立に向けて僅かながら助力をする。この時の記憶が動機の一つだったのかも知れない。

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