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祈る

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祈りとは心情の発露だと思う。 そして想いは人を通して具現化される。 人を通さずして想いが形になる事はあり得ない。 人のみが意志を持ち、発想し、想い、その如く営み築き上げ、無から有を生む事が出来る存在だと思っている。 想いを持つ事の出来ない存在に、その想いを具現する事は出来ない。 夢であり、目標であり、理想であり、人は様々な事を思い描く。 そして想いは時に伝搬する。そこに物理的障壁は存在しない。 今思うと亡き祖母の祈りは何だったのか、しっかり尋ねるべきだったと思う。私の祖母は朝夕と仏壇の前で経を上げる事をおこたらなかった。私の父は無神論者でそんな祖母の読経を精々自分が極楽に行くためのお願いだろうぐらいにしか思っていなかったようだ。断片的に私が祖母から聞いた内容は必ずしもそれに当たらない。仏壇の前で先祖に願っていたのは家の安全と繁栄と家族の健康だったと記憶している。「ご先祖様が守って下さる」その言葉だけはよく覚えている。 果たして実際にご先祖様が黄泉の国から降りてきて目に見えないところで私の生活を守ってくれているのかどうかは分からないし、示しようのない話だし、今回の論点でないので言及しない。ただそこに祖母の思いがあった事は確かだ。 家内の母は、夫がロシアやルーマニアに荷物を運ぶためにトラックで遠出する度に夜な夜な夫の安全を祈っていたという。教会が閉鎖され宗教が悪だとされた共産主義社会の中で。人の思いというのは法律や規制でどうこうできる物では無い。夫を想い無事に帰還する事を願う気持ちは自然にわき上がるもの。そしてそれを娘だった家内は記憶している。母の夫に対する気持ちは祈っているときにに限らず食事の時や様々なときに現れたろう。もちろん帰還した際にも。夫は妻が祈っていた事を知っていたかどうかは分からない。言わなければ知るよしも無い。しかし無事に帰ってきたときの喜びは、不在の時の無事を願う気持ちと起源を同じくする感情。無事を願う思いが強ければ、帰還したときの喜びも大きいだろう。 そして夫の心にも無事に帰らなければならないという思いが強くなる。夫、父としての責任をまた強くした事だろう。そして時に睡魔に襲われたときには家族を思い出し、無理をせず休んだかも知れない。ハンドルさばきも無茶を控えたかも知れない。 そして子は父を思う母を見、また母と同