書評:不寛容論 森本あんり著

 産経新聞の紙面に紹介されていたことがこの本を手に取る切っ掛けだったと思う。

不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学 (新潮選書)

この本はアメリカに入植したピューリタンの牧師の一人であるロジャー・ウィリアムズの思想に焦点を当てる。

当時のイギリスに於いてピューリタンは、祭事に於ける祭服や信条までも強請する英国国教会による支配に異を唱える存在だった。王権神授説に抗議する反体制主義者達である。イギリス政府から見れば危険分子だ。

ピューリタンは信仰とは本来自発的に持つものであり、強要されても意味が無い。教会は選ばれし者が集う場所であり、国が統制するものではないと考えていた。

危険分子は投獄されることもあり、結果信仰の自由を求め新天地アメリカを目指すことになる。ウイリアムズもその一人である。ウイリアムズは英国国教会は腐敗しており「反キリスト」に成り下がった悪の存在なので、絶縁すべきだと考えていた。かなり厳格な理想主義者だったようだ。

一方イギリスの植民地はイギリス国王の特許状という許可を得て支配の権限を受領していた。ピューリタンの中の多くは地理的に距離を置き、国教会からの支配から逃れることが出来れば十分であり、その為に国王からの特許状を貰うために表向き傅くことに何の疑問を持っていなかったようだ。ウイリアムズとは違う現実主義者という事だろう。

ウイリアムズは土地の権利を持っているのは国王ではなく現地の先住民達なので、彼らから買い取って所有すべきだ、特許状は不要だと主張している。事実その後彼は先住民から土地を購入している。

また植民地政府は住民に対して植民地の共同体への忠誠の宣誓を強要した。その上でピューリタンの信仰を告白し、教会契約に署名するなどの宗教儀式を経た正規教会員と、ピューリタンではない者を区分し、先を自由公民と呼び後を一般住民とした。植民地の最高議決機関である総会参加することが出来たのは、株主である出資者および成人した教会の正会員だった。

宣誓自体は植民地政府に忠誠と義務を尽くし、反乱や騒動の策動を企てていることを知ったら当局に通報すること等、ある意味平穏な社会を築くために当たり前の契約であり、それを拒むなら共同社会に入ってきては困るというのはまっとうな話だ。本書では野球チームを作るにもかかわらずテニスをしたいという者が来たら、どうぞ他でテニスチームを作って下さい。とくのは当然だという比喩を載せている。

ウイリアムズが異を唱えたのはこの宣誓書が「神の名で始まり神の名で終わる」事だった。ピューリタンの信仰を持たない者に宗教的行為を強請することが問題だと訴えた。

他にもニューイングランドでは日曜礼拝に理由無く何度も欠席すれば禁固刑か罰金が科せられていた。言い換えるならイギリスで国教会の様式を強請される事をきらって植民地を作ったピューリタンが、今度は国教会に変わり異なる信仰様式を持つバプテストやクエーカーにピューリタンの様式を強要する側に成り代わったという事らしい。

ウイリアムズの主張は国教会の不寛容から逃れて自由を求めてきた我々ピューリタンは、同様に他の信仰にも寛容であるべきだと考えた。

ただここで重要なのは、ウイリアムズは他の信仰を許容していたわけではない。一夫多妻を主張したり偶像を崇拝する、キリスト教とはいえ異端や反キリスト的なグループを心の底から忌み嫌っていた。また先住民の安易な性関係、飲酒癖、敵の頭部を切断して戦利品としそれを食べることなど一貫して嫌悪を示していた。

ウイリアムズ考える寛容はキリスト教的な価値観に根ざしたもので実に面白い。

イギリス人であれ先住民であれ、神の前にいずれも罪人である。いずれの罪人もキリストによって魂が贖われて初めて神の元に返ることが出来る。イギリス人である事にあぐらを掻いて回心しなければ、先住民に天国の門が開かれてしまうよ。

というもの。

現代的リベラリズムであればイギリス人も先住民もいずれも善人と主張するであろう所、そもそもウイリアムズのいずれも罪人という考え方とは根本的に異なる。

ウイリアムズは厳格なキリスト教徒だったからこそ、形式的な儀式でも人種ではなく信仰によって救われると考えており、自発的な回心でなければ意味が無いと考えていた。

だから信仰は強要されるものではなく、政府が教会と一体となり特定の信仰を強要することを拒絶した。

これが後に自由の国アメリカの文化になる政教分離と思想信条の自由へと繋がるのだという。

しかしウイリアム自身は彼の強烈な主張により植民地政府のピューリタンから危険視され、結果追放される。

彼はに先住民から譲って貰った新しい街を作り、そこを統治することになった。すると他の入植地から追放された曰く付きの人間ばかり集まってくるようになる。信仰を理由に兵役の任務を逃れようとする者や、ウイリアムズが嫌った英国王からの特許がない事を理由にウイリアムズの統治を認めないと主張する者など。

ウイリアムズは異論を唱えるだけのある意味責任を持たない存在であったのが、今度は異なる住民の意見を集約し、まとめ、納得させ、新たな仕組みを作るといった責任を持つ者になってしまった。その課程で彼の寛容さが更に練度を高めていくことになる。

同書は冒頭において、良く言われる「日本は多神教国家なので他の信仰に寛容だ」という主張を一蹴している。

実は私もこの意見には一部共感する。日本の多神教という考え方は日本独特の価値観だ。だから一神教の人達は多神教になれば良い、というのは彼らに改宗しろというのと動議だ。頑なな一神教信者はまず受け入れることはない。我々がハロウィンパーティーを開いてクリスマスケーキを食べ、初詣神社に向かい、僧侶に葬儀をあげてもらう現実は、敬虔な一神教信者にとっては、無頓着、無分別、混沌、不可解といった感覚を与えるだろう。

日本は仏教伝来以降、神仏習合の文化を1200年以上紡いできた。後に儒教の神も混ざってくるが、これらは全て日本人がそれぞれの宗教のいいとこ取りをして「日本風」に変化させ取り込んできた結果だ。必ずしも全てを無条件に受け入れたわけではない。これ自体が世界でもまれに見る特殊性だとおもう。日本教と言う人もいるが、あながち間違っていないと思う。

ヨーロッパ社会やアメリカが、衝突と葛藤の末、思想や価値観の違う者と隣り合わせに生きていく上での知恵として確立した「宗教や価値観を強要しない」「国が特定の信仰を強要しない」というルールとは異なる。

同書を読み感じたのは、航空機技術の発展により国境の壁を超えることが出来る様になり、web上では様々な価値観が混在し、時に対立するグローバル化した社会で、今日本に求められているのは、外からの異物を日本風に変えて吸収する日本式の寛容ではなく、西洋で培われた対立しても社会を崩壊させない寛容ではないだろうか。

その為には、衝突を乗り越えてきた経験値が必要であり、日本にはまだそれが足りていないのではないかと感じた。

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