今起こりつつある変化について「転落の歴史に何を見るか」「失敗の本質」


「 転落の歴史に何を見るか」は斎藤健衆議院議員が当時の通産省の官僚だった時代2002年、およそ20年前に出版された本だ。この本はそこから遡ること更に18年、1984年に出版された「失敗の本質」を読んだことに端を発する。

齋藤代議士は、「失敗の本質」によって考察された旧日本軍の組織内の問題は、今もまだ繰り返されており、「多くの戦争犠牲者を出しながら、何を学んできたのか?」と憤る。

「失敗の本質」は野中郁次郎教授ほか、6人の研究者による

  1. ノモンハン事件
  2. ミッドウェー海戦
  3. ガダルカナル作戦
  4. インパール作戦
  5. レイテ海戦
  6. 沖縄戦

の6つの作戦の考察から共通する「戦い方」の失敗の要因を組織論という側面から探求した書物である。

「失敗の本質」では、日本軍は日露戦争などの過去の戦闘による成功体験を元に、組織と戦略を先鋭化させていった結果、特殊化していき、一方で柔軟さを失っていったと考察する。

 帝国陸軍は火力の優劣が戦闘の鍵である事を知りながらも、日露戦争旅順戦の勝因となった白兵戦における銃剣突撃主義が戦略原型となっていく。そして物力不足を精錬によって補い、射撃は敵に近接するための手段と捕らえるようになる。この考え方は大東亜戦争末期まで変わる事は無く、火力重視の米軍の合理主義に対して、白兵戦重視の精神主義で戦い続けた。

 帝国海軍はバルチック艦隊に於ける完全勝利からくる艦隊決戦主義を確立する。日本海海戦のような両軍主力部隊の艦隊決戦で勝利を収めるため、猛烈な訓練を行い敵の同型艦よりも優れた艦艇性能、一糸乱れぬ敵前機動により、最大戦力を敵にぶつける作戦指揮法、操作法などを確立する。結果主砲射撃も魚雷発射も、また航空機による雷撃、爆弾も前代未聞の命中率をあげ、艦隊の運用、艦艇の操縦も、熟練の結果「技神に入る」とろろまで高めた。

 そして真珠湾攻撃によって航空機による攻撃で米国戦艦を倒した経験から巨艦法主義から転換できる機会を得ながらも、その後航空機優先の策が具現化されることはなく、ミッドウェーの敗戦以降空母の増強を図るものの、大艦巨砲主義を具現した「大和」「武蔵」の四六センチ砲の威力が必ず発揮されるときが来ると、最後まで信じていた。

 対する米国海軍は真珠湾で低速戦艦を一挙に失った。この事は、大艦巨砲主義から航空機を主体とした空母機動部隊への自己改革を促した。F4F、F6F、F8Fなどの戦闘機やB17からB29に至る長距離戦略爆撃機が、次々と連続的に開発された。これらの一連の技術革新が米軍の大艦巨砲主義から航空手兵への転換を可能にする基盤になった。米軍のこうしたヒトと技術における突出は、戦略的体系全体の革新を導いた。

 日本軍は創設以来75年を経て、極めて安定的な居心地の良い組織になってしまったという。病気や大きな失態でもない限り誰でも大佐にまでなることができ、2代、3代のうちに日本的長老体制が出来上がっていた。仕事は決まったことの繰り返し。将官になると序列は変わらなくなり、組織の新陳代謝が進まなくなった。

しかし戦時になれば状況は変わる。トップは豊富な経験と知恵の上に想像力と独創性を働かせ、頑健な身体と健全なバランス感覚で誤りない意思決定を求められる。

日本軍は極めて官僚的組織、かつ情緒的人的結合を重視する集団主義を混合させる日本的ハイブリッド組織を造り上げ、それは戦略を誤った者を降格させることをためらい、同じ戦略的過ちを繰り返させ、一方で現場から上がってくる独創的且つ現実的戦略への変更の機会を失わせ、自己革新能力を失った。

課題を克服するための本質的議論や情報を基にした合理的な判断ではなく、権威のある大きな声と、場の空気が重要な判断を誤らせた。

日本軍は平時の体制のまま戦争に突入し、戦時に求められるバランス感覚のあるリーダーを輩出することも登用することも出来なかった。

 日本軍は、ヒトを戦略発想の転換の軸として位置づけることを怠った。

 革新は異質なヒト、情報、偶然を取り込むところに始まる。官僚制とは、あらゆる異端・偶然の要素を徹底的に排除した組織構造である。日本軍は、異端者を嫌った。海軍の空軍化という独創的戦略論を唱えた井上成美航空本部長など、異端者は組織の中枢を占めることは出来なかった。

 日本軍はここの戦闘結果を客観的に評価し、それらを次の戦闘への知識として蓄積することが苦手であった。

 日本軍の戦略策定は一定の原理論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。

 日本軍の戦略策定が状況変化に適応できなかったのは、組織の中に理論的な議論が出来る制度と風土がなかったことに大きな原因がある。日本軍の最大の特徴は「言葉を奪ったことである」

「失敗の本質」で指摘された、柔軟な発想の転換が出来なくなった、幾つもの決定的な判断を誤った日本軍の組織的側面の考察を元に、齋藤健氏は20年前、彼のいた官僚組織を分析する。

同氏は戦前の転落の要因として挙げられた教訓を

  • ジェネラリストの指導者を育成してこなかったこと
  • 組織に十分な自己改革力がなかった
  • 道徳律を失った
  • 深く洞察した正確な戦史を残してこなかった
以上の4つであると指摘している。そして日本軍の転落の要因は未だ日本の組織に根強く残っていると説く。

 ジェネラリストとは、広範な分野に於いて知識や経験を有する者。封建社会に於いて外交、財政、公共事業、福祉、農政、産業振興、技術開発など様々な面に於いて責任を有するジェネラリストによる統治が行われていた。武士の系譜に属する明治初期に活躍した政治家もジェネラリストであった。近代軍制への転換を図り新しい世代の軍人指導者達はエリート教育を受けたスペシャリストとなり、日露戦争まではジェネラリストとスペシャリストが相互に弱点を補っていたが、原敬の暗殺と山県有朋の死を境にジェネラリストを失ってしまう。

 武士の系譜を持つ指導者が失われると共に、日本の道徳の体系が崩れていった。

 主義主張や合理性よりも仲間であること自体を重視する日本人の組織の心理が存在する。日本軍の組織構造上の特性である「集団主義」は、組織とメンバーとの共生を志向するため、人間と人間との間の関係それ自体がもっとも価値があるものとされる。

そして、組織目標と目標達成手段の合理的・体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の「間柄」が重視され、意思決定の決定的遅れをもたらす。

 仲間内の摩擦を避ける風潮が、日常的に繰り返されるルーティーンワークへ疑問を差し挟むことをためらわせ、思考停止へと導き、組織の学習が不活発となった。
 仲間内の摩擦を避けたがる心理が、不祥事に対する甘い処分を生んだ。軍律違反が正されること無く、敗因の探求も行われず、教訓を引き出す機会を失い、最終的に暴走を止める術を失った。
 仲間意識の深化が悪平等的発想を強め、適材適所や抜擢が行われなくなった。

 日本の組織は、創設当初は独創力もあり人事も柔軟で、優れた対応能力を示すが、20年30年と時間が経つにつれて意思決定が歪んでくる。とかく、人間関係や過去の経緯など本質的でないことをよりどころとして重大な判断が行われるようになりがちだ。

 だからつねに、物事の本質かを追究するように個々人が心がけると同時に、組織のシステム、風土もつねにそこに意を集中しなさい、といういことであった。

 主義主張や合理性よりも、仲間であること自体を重視する心理の力が、日本人の組織においてより強く働いていることは明らかである。

 個々人が摩擦回避の精神に浸っているうちに、やがて声が大きく精力的な「ボス」と呼ばれる人間が登場し、リンチなどの有形・無形の暴力的行為によって属人的な組織支配を確立するという。その結果、合理性の追究とか本質的議論の展開とか人権の尊重とかいったことが、二の次三の次とされるようになるとのことである。

 オリジナリティを軽視し、仲間内の摩擦を避ける風潮は、やがて「日常の自転」というものを生み出していく。

 「日常の自転」は容易に「思考停止」へと導き、組織の学習は不活発となる。

 なぜあそこまで同じ失敗を繰り返し、失敗に学ぶことが出来なかったか、もっとも理解に苦しむのはこの点にあるが、それは、日本陸海軍を襲った紛れもない事実なのである。

 仲間内の摩擦を避けたがるという心理がもっとも顕著に表れたのは、人事においてではなかったか。

 仲間意識の深化が悪平等的発想を強め、適材適所や抜擢が行われなくなることである。

 組織構成員の士気の維持のためには、皆が納得する、能力に応じた公平な人事が基本である。これが組織の力に反映する。

 平時に於いては、実戦で構成員の実力を試す機会が無いから、軍事教育における成績以外にない。教育経験に重きを置いた年功序列的な人事が行われる事になる。

 しかし一朝有事となれば事態は変わる。抜擢人事を行っても、目に見える実践実績に基づいたものである限り組織高セインの納得は得られよう。第二次世界大戦勃発後のアメリカもドイツもこの点は見事であった。

 齋藤代議士は官僚現役時代の20年前に「転落の歴史に何を見るか」において、

戦後行動成長からバブル崩壊、「失われた10年」へと、20世紀の日本は高揚と挫折の間を大きく波打った。

という書き出しから始め、

21世紀前半の日本が転落の歴史をたどるのか、あるいは、復活の歴史を刻むのか。答えはこの10年の過ごし方にある。

と締めくくった。

 私が読んだ増販版は、そこから更に10年後に出版され、この冒頭には

この間、この国の指導者達が、時代の曲がり角を深く自覚して果敢に手を打ってきたとは、到底思えない。

と書いている。

 そして増版版が出版されて更に10年が経った今、2021年。

 戦前日本軍が抱えていた、20年前斎藤代議士が指摘し、かつ10年前にもまだ大きく変わっていないと言われた日本の社会の抱える問題は、地方にもそのままあてはまる。


 しかし、物事の本質を捉え、課せられた課題に正面から向き合い解決をしていく風土が、やっと起こりつつあるとも感じている。

 今国で自民党青年局を中心に政府に働きかけている「こども庁」創設の動きもその一つである。こどもとこどもを取り巻く環境の抱える課題は、教育・学力、いじめ、虐待、性暴力被害、少子化、不妊治療、産前産後ケア、保育とその質、不登校、ひきこもり、貧困、孤独、発達障害、死因究明など枚挙にいとまが無い。

 担当する省庁は、文科省、厚労省、法務省、警察庁、内閣府など部局をまたぐ問題であり、この縦割りに横串を通す必要がある。

 また、国で法案を作り、県は児相や高校など対応をし、市町では小中学校と児相との連携や貧困など福祉の分野では直接現場を担う事になるが、この連携を密にしていく必要、つまり縦串を通す必要がある。


 さらには、こどもが産まれる前の母親や家庭の問題から、乳幼児、就学前、義務教育期、青年期、結婚、そして妊娠と各世代に分かれる課題を一貫性を持って取り組まねばならない。

 今まで取り組むことが難しかった様々な行政的壁を乗り越えて、課題解決型の施策の中心に位置づけられるのが「こども庁」である。

 この取り組みは国だけのことではなく当然地方も巻き込みながら「こどもの為に」という一点で動き出しつつある。

 失われた30年はもう取り戻すことが出来ないかも知れない。

 もしかしたら日本の転落はもう止めることが出来ないのかも知れない。

 しかし、それでも前に進めていくより他に選択肢はない。

 それが先人から受け継いだこの日本を未来に繋いでいくため、今現在社会を担う立場にある我々大人の、次の世代への責務であると、私は考えている。




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