2010年11月2日火曜日

似て非なるもの・愛国主義と国粋主義

今 年の夏イスラエルから来た女性の通訳をした。彼女は自らを愛国主義者だと言った。彼女は彼女の国を誇りに思い彼女の国の建国は歴史の中の奇跡だと言った。 そして母国を守るために彼女はパレスチナとの共生を訴えた。彼女自身は司法分野の経歴を持ち、退職した現在パレスチナ人の権利を保護するため法的手段に訴 える活動を支援しているらしい。


彼女曰く一般的イスラエルの国民はメディアなどによって扇動されている事も含めて恐怖と不安にさいなまれており、それが故に極端な排他的姿勢をとっているという。結果敵を駆逐する事のみが彼らの平穏を約束する物だと考えているらしい。最終的にイスラエルの国を崩壊させる事が非ユダヤ人らの最終的目的で、皆信頼できないと盲信しているらしい。


一方で彼女はユダヤの伝統と文化を愛しそれを誇りに思うが故に自らの国もその誇るべき文化を具現した国家足るべきだと考えている。よってユダヤの文化、ユダヤ教の教える平和、正 義、自由を実践すべきで、それはユダヤ人だけに対してでなくパレスチナ人に対しても保障されるべき事だと考えている。それがユダヤの予言者達が唱えた理想国家であり、その実現こそがイスラエルの国益なのだと言う。


イスラエル建国の道義的是非や他諸問題は趣旨がそれるためにあえて話を向けるつもりはないが、タイトルを言い当ててる良い凡例だと思って引き合いに出した。


自国=自分の帰属する場所を誇りに思いたいという感情は凄く当たり前の感覚だと思う。

たとえば郷土愛というのは良く耳にする。”うちの県には松阪牛があって鳥羽の真珠があって鈴鹿にはサーキットがあって”とか。これは当然他県の人間と接した時に、おまえの生まれたところには何があるんだ?ってな会話が発生するわけで、方言を笑われれば腹も立つしいくつも名所があれば、あるいは名士がいればそれを誇りたくもなる。

日本人が一般的に自国への帰属意識が低いと言われるのは単に自国以外の人間との接触経験率が低い事に由来してるのかもな、と思うわけだ。もちろん先述のイスラエルやアメリカのように何らかの特定の目的と意志があって力尽くで建国した過去がある場合や、占領国から独立を勝ち取ったようなケースと違い、近代の国家という概念が後からついてきたような日本の様なケースはまた別の要因もあるわけだが。


愛国心ってのは自己愛に近い部分があると思う。現実問題自分がマイノリティになった場合には自己防衛反応の側面も出てくる。自尊心の保護って方が適切だとも思う。単純なところ別のところにも少し書いたが、アメリカ人から”日本に落とした原爆は独裁者を駆逐するための善行だった”と言われれば、彼らの”歴史認識の不備”を追求せざるを得なくなる。世の中スーパーマン VS 悪の秘密結社みたいなコミック誌の世界のように単純ではない。にもかかわらずそんな図式を信じてる人間はあそこの国には掃いて捨てるほど実在する。

だから歴史は知っておかなきゃならない。色々トラブルになるからとか試験に出しにくいからなんて理由で近代史を教えなかった、(今も同じなんだろうが)社会科の教師の罪は大きい。こういった問題に正解も誤りも必要ない。むしろ学生同士が調査をした上で議論を戦わせる場を持つべきで、教師がすべきことは回答をすり込む事じゃなく生徒の論述能力と調査技能の向上を指導すべき。少なくとも私は中学校の社会科で習った近代史は”日本帝国軍事政権の台頭と植民地政策”および"原爆の被害と敗戦"、後はすっ飛ばされたような気がする。そのくせデモの正当性と労働闘争に関しては良く教えられた。自己の正当化ではなく事象は適切に分析し、その上で正確な判断を下すべきだ。適切な理解なくして、歴史方正しく学ぶことはできず、過ちもただすこともできない。


話がそれた。
愛国心というのは気づこうが気づくまいがうちに必ず存在するもので、あって当たり前だとおもう。ところがこの自己愛というやつは一歩間違うと利己愛に変身する。

口論する事と論議を戦わせる事もまた、似て非なり。そこはそもそも目的がよくわかっていないから起こる。論議を戦わせる場合には双方に建設的目標がある事をお互いに自覚し、その上で目的を到達するために双方が約束事を守らなきゃならない。双方の知識を高める事も目的になるだろうし、あるいは具体的な政策、方針を確立する為に意見を戦わせる事も目的になるだろう。いずれにせよ議論する理由が相互利益の目的の為であるという事を双方が理解している必要がある。そしてその共通目標に到達することを阻害する行動は双方が自主的に敬遠しなければならない。これは当事者の成熟度にゆだねられている。
一方で非建設的な口論は容易に中傷にその質を落とす。目的が利己的であり、すなわち相手をおとしめて自らが論勝することで優越感や結果の独占自己の正当化などの排他的利益を求めているところにある。

愛国主義は他国の愛国者と対峙したときに相互尊厳の元建設的な関係を築けなければ、とどのつまり国粋主義崩れでしかない。えせ愛国主義者と言うべきか。自らが自らを大切に思うように相手も相手自身を大切に思うわけで、これを阻害してまでも自己利益を追求しようとすれば当然関係は崩れる。他との共生がはかれない場合、長期的な視点において最終的に利己的行動は自己の不利益にすらなる。ただ国家間関係の場合そのスパンが一個人の人生よりも圧倒的に長いために被る可能性のある自己の不利益に対する試算が余りにも低いのではないかと思う。好もうと好まざると世界は小さくなり、経済、安全保障、環境、感染症等の病気など近代の人類が直面するどの分野の問題ですら一国国内だけで収集できる問題は限られている。すなわちいやがおう無しに我々は共通目標の下折衝し共動せざるを得ないところに押しやられている。

共生する方法を学ばなければ、我々の行き着くところは共倒れしか残っていない。残念なことに共生を実現するためには共生していく必要のあるすべての構成員が抜け駆けすることなく共通目標を第一義とする決まり事を守らなければならない。その信頼関係が構築されない限り入り口にすら達していない。
MDGだけにかかわらず我々の直面する問題は、それほど我々に時間的猶予を与えてくれていない。
我々人類が愚か者として滅ぶか、智者として学び共に生きるかは我々にゆだねられている問題だと思う。

日本に限らず誇るべき英知の蓄積、高い文化を持った国は至る所に存在する。むしろそういった文化を持っていない国の方が少ないはず。各々の国がそれぞれの文化に根ざした成熟した非排他的愛国主義を確立し共生を模索することが唯一我々が生き残るすべだと思う。なぜならどの文化においても必ず善の基準があり善行のモデルが歴史に存在し、子供を正しく育てようと望む親がいるはずだからだ。