生きるということ・生き方ということ
人は皆ここに生を受け、そしてその長短はそれぞれあるが皆等しくこの世を去る。 生まれ出でて死ぬことは我々の選択圏外だ。 しかしその時間を如何に過ごすかは我々次第だ。 如何に生きるか、すなわち自分の生の質は自己の責任である。 自分の生に質を問わなくなったとき、 その人の一日は食べて寝ることの繰り返しに陥る。 その人の人生は死を迎えるまでの単なる暇つぶしに過ぎなくなる。 自分が如何に生きるべきかを考えなくなったとき 生きることはその人にとって与えられた時間で自らの欲求を如何に満たすかが最重要課題になり、時に自らの利益の対価として他者に不利益が生じたとしても、その人にとって大きな意味を持たなくなる。 場合によっては世界はせめぎ合いの場であり、駆逐された者は自らの弱さを恨むべきと主張するようになるかも知れない。 つまり善と悪は意味を成さなくなる。 自らが如何に生きるべきか、様々な選択肢はあると思うが、いずれにせよ一朝一夕に定められるものではない。 自らの生の質を余生短くなってから憂いてもすでに手遅れである。 生の質とは生き方そのものであり、自己の選択の蓄積から成り立つ物であり、成熟に時間を要するからだ。いくら表面だけを取り繕っても偽物は偽物に過ぎない。人はそれを敏感に感じ何時までもだまし通せる物ではない。 如何に生きるべきかという問いは出来るだけ幼いときから常に意識し探求していくべきものだと考える。 生き方の質を追究するとき、必ず選択の岐路に立たされることになる。選択の難易度の差異にかかわらず。 そして誰にも見られていないから、誰も気が付かないからという囁きを耳にすることになる。往々にしてその囁きに耳を傾けたところで直接的実害を得ることはまず無い。 しかしバレない、捕まらない。が自分の判断基準になったとき、既に自らが汚染されていると気付くべきである。 貴方が既に子供を育てているとしたら、警告をしておく。貴方の子供もバレなければ結構だと考え貴方の前に隠し事をするようになるだろう。取り繕い、ウソをつくようになるだろう。 法律は社会の公正さを保つためのルールだ。しかしそれのみで公正な社会は作り得ない。法で人を律することは出来ないからだ。人は自らを律するすべを身につけねばならない。人は他者から強制されることを激しく嫌うからだ。 多く...