私が徘徊するところで最近特に東京都の条例可決に関するコメントを良く目にする。 多文化共生とは直接関係ないトピックなのだが色々危惧するところがある。 以前イスラエルの女性で元司法長官だかを務めた退役弁護士の方の通訳をした際に、何の会話だったからは覚えていないのだが、権利に関する内容に話が向かった。 その際に彼女が言ったのは ”他の権利を凌駕する絶対的な権利は存在しない” という言葉。 そして時に異なる権利と利害が衝突した際にそれを折衝するのが法廷だという言い方をしていたのを、”表現の自由”という言葉が乱舞している今、思い出した。 表現の自由とは確かに法によって守られた権利であるだろう。しかしこの自由と権利はそのほかにも多数法的に約束されている権利の中の一つに過ぎない。 親は子供を保護し養育する権利があるが、その権利はある特定の状況において制限されることもある。親に養育の能力が無いと見なされたときだ。子供は適切な環境で育てられる同じく権利を有しているわけで、これが阻害される可能性がある場合はそれを阻害する権利を制限できる。仮にそれに意義がある場合は法廷で争うしかない。 法律の専門家ならもっと適切な凡例も出せるのだろうが、残念ながらずぶの素人だ。 とにかく東京都の判断に意義があるのなら、特に出版会社に至ってはそれこそ法廷闘争すべき問題なのではないか? イベントの集団ボイコットをして都が規制しようとしている対象作品とは直接関係のないユーザーも巻き込んで”不適切な作品の規制ではなく、行政による出版業界への圧力だ”とでも言わんばかりのアピールは、ここまで来るとむしろ焦点を意図的に歪曲した扇動のようにさえ感じさせる。 みんながこんなに反対してるんだから可決すべきではないとでも言わんばかりに。果たしてこれは民主主義なんだろうか? 扇動とそれに惑わされる大衆という図式を悲しいかなここ数年何度となく違う形で目の当たりにしているだけに、これもまた非常に憂慮している点の一つだ。 奇しくも古代民主主義の発祥の地ギリシャでは大衆の扇動の結果国家が破綻したと言うではないか。 ともあれ人の営みの中で生まれてくる行動には全て自由と権利に裏付けられた側面がある一方で、いかなる自由行動もそこに常に責任がセットになって存在していることを忘れてはいけない。...