2012年2月27日月曜日

在日ベトナム人2世の警察官の話


元記事はここ。

日本人の道徳がベトナムでも報道されて関心を引いてるんだとか。

記事の締めくくりに以下の一節がある・引用
道徳教育には「価値観の押し付け」という反対論があり、正式な教科書は存在しない。だが「何が正しいか自分で考えましょう」という教育は間違っている。正しいことを正しいと示す教材が必要だ。」

全く同感である。

時に絶対的に正しいことと絶対的に間違ってること、即ち善悪は存在しないという考えがある。


確かに時代によって様々な価値観が変わってきたのだろう。

古代中米では生け贄として当たり前のように人が公義として殺されてきた。こどもも含めて。生け贄はもちろん日本にも存在した。人柱と言って。
戦争をすれば敵兵を殺すことは勲章を与えられる善となり、場合によってはナチスドイツのように民間人を殺すことすらユダヤ人であれば善になったのかも知れない。

殺さないまでも長い間黒人奴隷は家畜と同等だとされ酷使しても構わない。家畜だから同じテーブルで飯を食うことは無く、同じ車両にも乗らなかった。

イスラム教国の中には家の面目を汚したとして親の意にそぐわず不貞を行った娘は殺しても構わないとされ、同じく不貞の女性は公の前で石をぶつけて殺すという処刑を未だに行っている国もある。

これらの事例は現在我々が感じる価値観とは大いに乖離し許容できない行為ではあるが、当時は「善し」とされたとされる凡例の一部とされる事もあるだろう。だから善悪は時代によって変わるのだ・・・・と。
しかし本当にこれらは当時「善」だったのか?

生け贄として扱われた物が必ずしも望んで身を献げたわけではなく、おおむね強制的に連行された社会弱者である可能性は高く、処刑される側の社会層にとっては恐怖であり恨みであり他の殺しと同等であり、即ち善ではなく忌むべき悪に他ならない。単に抵抗できなかったにすぎない。これは被差別階層であったユダヤ人に於いて同じであり当時の黒人奴隷に於いても共通する。
つまり悪は悪でありつづけたにもかかわらず、単にその行為を正当化するグループの力が強かったが故に抑圧されていただけの事。 

でなければ当時ユダヤ人を助けようとしたドイツ人や黒人を守ろうとしたアメリカ人が存在した理由が見あたらない。
社会がどのように変化していこうがこれらのことを悪だと思ったが故に自らの不利や場合によっては命をリスクにさらしても保護しなければならないと思わせた「善がなんたるや」という道徳観がそれぞれの方に強く存在したから、他の人達が「しかがたがない」と諦めても勇気を持って立ち向かえたのでは無かろうか。

つまり善は善として存在し続け、悪はいかような状態によっても悪であったはずである。
だから普遍的に捉えることの出来る善と悪は存在する。

だから何が善きことであり何が悪しきことであるのかを教える道徳は教えられなきゃならない物だと思う。継承していく必要がある。
人は学び習得することによって人として成熟する。これには成長する期間を要する。
 
しかしながら単に「何所何所にこう書いてあるからこれは理屈無しに悪なんですよ。」ではいけない。単なる丸暗記による従属だからだ。
それが何故悪なのか考え理解する必要はあり、当人に考えさせ結果にまで導く必要はあると思う。これによって自らの思考で直面した事態に対し自分の行動を選択する力が付く。しかしこの導きを扇動と言ってしまっては元も子もない。

また道徳は机上で学んでも意味が無く教える側が実践し見せる必要があり、当人にも実践を促さなきゃならない。教える側が習得している必要がありウソが利かない。 教育者自身が人格者たり得なければならない。教師とは本来それほどに崇高で高潔で責任のある聖職ではないのか。単に技能を教えるなら専門学校で良い。
もちろん学校だけで道徳を教えるのは元々不十分で本来は家でやるべき事、なのだが、そこが崩れかけてきているからこそ逆に学校で教えなければならない要求が高まっているという矛盾も存在する。

価値観の多様化という事が基軸になって画一的考え方を強制して教え込む「価値観の押しつけ」という事が嫌われていると言うが、普遍的な価値観は存在しそれはやはりこれは基礎として教えられるべきだと思う。基礎問題が分かるから応用問題が解けるのと同じように社会に存在する種々の判断の難しい問題は、基礎的道徳観を確認した上で考察される必要があり、それらの判断が難しいから全てを放棄して教えないと言うことでは困る。

道徳の教科書を作り道徳を考え、実践し継承していくことは必要だと思う。 一部の有志の方々の野球や空手やサッカーを通してという対応だけ依存して大本の教育機関が積極的にこれを取り扱わない様では現在の状況に対応していくのにはちょっと難しいのではないかと思う。