2011年7月31日日曜日

生きるということ・生き方ということ

人は皆ここに生を受け、そしてその長短はそれぞれあるが皆等しくこの世を去る。
生まれ出でて死ぬことは我々の選択圏外だ。
しかしその時間を如何に過ごすかは我々次第だ。
如何に生きるか、すなわち自分の生の質は自己の責任である。

自分の生に質を問わなくなったとき、
その人の一日は食べて寝ることの繰り返しに陥る。
その人の人生は死を迎えるまでの単なる暇つぶしに過ぎなくなる。

自分が如何に生きるべきかを考えなくなったとき
生きることはその人にとって与えられた時間で自らの欲求を如何に満たすかが最重要課題になり、時に自らの利益の対価として他者に不利益が生じたとしても、その人にとって大きな意味を持たなくなる。
場合によっては世界はせめぎ合いの場であり、駆逐された者は自らの弱さを恨むべきと主張するようになるかも知れない。
つまり善と悪は意味を成さなくなる。

自らが如何に生きるべきか、様々な選択肢はあると思うが、いずれにせよ一朝一夕に定められるものではない。
自らの生の質を余生短くなってから憂いてもすでに手遅れである。
生の質とは生き方そのものであり、自己の選択の蓄積から成り立つ物であり、成熟に時間を要するからだ。いくら表面だけを取り繕っても偽物は偽物に過ぎない。人はそれを敏感に感じ何時までもだまし通せる物ではない。
如何に生きるべきかという問いは出来るだけ幼いときから常に意識し探求していくべきものだと考える。

生き方の質を追究するとき、必ず選択の岐路に立たされることになる。選択の難易度の差異にかかわらず。
そして誰にも見られていないから、誰も気が付かないからという囁きを耳にすることになる。往々にしてその囁きに耳を傾けたところで直接的実害を得ることはまず無い。
しかしバレない、捕まらない。が自分の判断基準になったとき、既に自らが汚染されていると気付くべきである。
貴方が既に子供を育てているとしたら、警告をしておく。貴方の子供もバレなければ結構だと考え貴方の前に隠し事をするようになるだろう。取り繕い、ウソをつくようになるだろう。

法律は社会の公正さを保つためのルールだ。しかしそれのみで公正な社会は作り得ない。法で人を律することは出来ないからだ。人は自らを律するすべを身につけねばならない。人は他者から強制されることを激しく嫌うからだ。

多くの人は生き方の質を激しく問われることはない。しかし突如として岐路に立たされることがあることは気にとめておくべき事だと思う。少なくとも選択を迫られたときにうろたえずにすむように。自らの会社が社会的被害を生み出した時にも、一時の取り繕いでウソを言わなくてもいいように。とっさのウソは往々にしてばれるものであり、ばれたときには一気に状況は悪化する。 保身という利己の優先順位を被害者の救済という利他より上位に置いた故にエゴだと言われるからだ。しかしそんな難しい判断は生半可な事では下せない。つまり日々如何に生きてきたかが問われるからだ。他でもない訓練の成果といえるだろう。だからそのような試験を突きつけられることのない大多数の人々はある意味恵まれているのかも知れない。

しかし大きな試験に自らをさらされるような事が仮になくとも、日々我々は小さな試験を繰り返しており、訓練の成果の蓄積こそが自らが築いてきた自己そのものであり、その自己が故に人は人に疎まれたり人に好まれたりする。
人から疎まれる人には疎まれる理由があり、人から好まれる人には好まれる理由がある。そして最終的に好まれる理由も疎まれる理由も自らが築いてきた自己に原因がある以上、自らの責任の範疇である。これは年齢を重ねれば重ねるほど容姿が占める割合が減って行く分如実になる。
女性は必ず若さと共に美貌を失い男性は若さと共に俊敏さや判断能力が衰えてくる。女性は愛でられることが無くなり男性は尊敬されにくくなる。
そうなった時男女を問わず人は内に何を持っているだろうか。

私は巨万の富を抱えながら疎まれて孤独死を向かえるよりも、着の身着のままであったとしても子や孫から愛され、人から惜しまれて生を終えたい。
人から与えられる愛情は強要して得られる物ではない。自らが愛されるに値する者でなければならない。人は往々にしてこのことを忘れがちである。愛は力で得ることも金で買うことも出来ない。なぜなら愛してもらわなければならない代物だからだ。
これは偽善の元には成り立たない。

老いてから手遅れにならぬような生き方をしたいものだ。

ラタトゥーイェという子供向けのアメリカ映画がって、娘達と何年か前に見たことがある。
食べる物に繊細な味があることを知ったネズミが父親から言われた言葉。食い物は燃料だ。尽きたら動けなくなる。だから四の五の言わずに食え、と。

生き方の質を考える余裕のある私は、生き方を選ぶことの出来ない境遇に生まれた人たちに比べて随分恵まれている。

人は学び、思考し、夢を描き、未来を築いていく能力を持っている。新しい物を生み出す可能性を持っている。機関銃を渡され兵士として教育され年端もいかぬうちに殺される子供達でも、爆弾を抱えさせられて検問所を破壊するために使われた子供達でも、親の代わりに労働を強いられる子供達でも等しく。そして飢餓人口は9億人を超え、7人に1人と言われている。様々な可能性を能力を秘めた貴重な人間のかなりの多くの数がその能力を開花させることなく生を終えていっているかも知れない。これは大きな損失ではないだろうか。
人間の脳はフル駆動しておらず、その能力の一部しか使っていないと主張する人がいる。その真偽は分からない。しかし人類全体として7分の1の人材が消失しているかも知れないという事は脳の話よりもずっと現実的だと思う。

難民と言われる生活を強いられている人たちの子供の多くは、その不虞な境遇にもかかわらず成熟し高い志を持っている事に驚かされると国連難民弁務官の方から伺ったことがある。自国の人たちの命を守る医師になりたい、当たり前の生活が営めるような国を作るために政治家になりたい、と主張する年端もいかない子供がたくさんいると言う。

皆適切な教育を受けそれを開花させることが出来たとするならば有能な人材ばかりだ。IQの高さよりも志の高さが人を突き動かす。障害を乗り越えて成果を上げる。

適切な教育を受け自らを実践、具現していくことの出来る環境を得た我々は間違いなく恵まれた存在である。そして自らの得た恵みは自らが甘受するだけのために存在するのではないと、恵まれた者達は実感して自らの生に責任を持って営むべきである。なぜなら我々が受けた生は我々が選んで受けた物ではないからだ。我々が与えられた環境は自らの成果によって獲得した物ではなく、たまたまここに生まれたという事以上の物でも以下の物でもない。

我が国日本は経済的には成熟した国になったが目的を見失った彷徨える亡国になってしまったように思う。我々が本当に満たされるためには自らの存在意義を見出し目的を定めその如く成果をなした時ではないだろうか。未曾有の天災を経験したとはいえ、それでも日本は恵まれた国である。
世界の力のバランスが代わりつつある今、覇権戦略を持った国を近隣に持つ我々日本は、これから何処に向かうべきか真剣に考えなければならない時にあるのではないかと思う。