討ち入りの真相

先日政治大学院にお越し頂いた小名木善行先生のブログ。

懇親会でお話し頂いた 「なぜ浅野内匠頭は殿中で刃傷に及んだのか」 が書かれている。 足利が倒れれば吉良が嗣ぐと言われるほどの姻戚関係にあり、南北朝では当然北朝側にいた。 尊氏は北条征伐により鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇を裏切り自らがその地位を奪い、都合良く管理できる天皇を即位させ北朝を樹立する。その孫義満は明から日本国王の称号をうけ、天皇にとって変わろうとした一族。 対する赤穂藩の浅野内匠頭 赤穂藩は後に吉田松陰など幕末の志士に尊皇思想に目覚めさせた学者であり中朝事実の著者山鹿素行を雇い入れている。その後山鹿素行は当時主流だった朱子学を批判し、危険思想保持者として流刑扱いになるが赤穂藩がこれを引き取る。浅野内匠頭長矩は幼少の事から山鹿素行に学ぶ事になる。
討ち入りの時にならしたのが山鹿流陣太鼓。 吉良上野介と浅野内匠頭長矩

どう考えても皇室観が全くあわない。 年齢も違いすぎる。 刃傷事件の原因は長矩自身が何も語らないまま切腹になっているので、実際何の証拠もなく誰も確かな定説を打ち出せていない。 かねてより、 自らのプライドを傷つけられただけで家族と家臣が路頭に迷うような事をするだろうか?と思っていた私に 回答をくれたのが小名木先生。

悪口をネチネチ言われたから
でもなく
賄賂を要求されたから
でもなく
塩田の利害関係の衝突
でもなく

山鹿素行「中朝事実」を読む
天皇の勅使を迎えるにあたって、浅野家および若い長矩の大切にしている心情を否定するような対立があったのではないか。
そして
義憤に駆られて長矩は刃傷に及び
その事が分かったから家臣は討ち入りにまで至ったのではないか?

辞世の句
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん

いかにとかせん!
と訴えた春の名残
これは彼自身の事ではなく御皇室、天皇という存在の事ではなかったのか。

小名木先生は他の説同様確かな証拠はないものの、どの説よりも一番納得がいった。


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室町時代、戦国時代、江戸時代と続き天皇は京に住まわれ歴史は武士によって動かされ、政治の実権は将軍が行ってきた。
そんな中、いやいや日本は天皇の国なんだ。
漢籍を学ぶ事が学問とされた時代に、いやいや、中国=世の中心は葦原の中つ国=日本だ。

と主張した山鹿素行。
彼の研究の集大成、中朝事実は山鹿素行の赤穂滞在時代に書かれている。

この本は吉田松陰の心を揺さぶり、即ち明治維新の志士達の思想の礎になり、後に裕仁親王殿下の教育を仰せつかった乃木希典が愛読した本。

私もこの復刻版で学んだ。






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