2013年5月19日日曜日

「武将」の一言では語り切れない


「天下を謀る」という藤堂高虎を描いた歴史小説がこの度5月に文庫本として再版された。
安部龍太郎氏の作品で高虎研究の大家藤田達生先生の監修も入っている。

安部先生と藤田先生の間で良く言う事があるのだそうで。それが「司馬遼太郎が憎い」 なのだそうだ。

司馬遼太郎の作品の多くに藤堂高虎が描かれているらしい。そしてそのいずれの場面においても「卑怯な裏切り者、風見鶏、刀を持った近江商人」といったイメージで書かれているらしい。そしてそれが即ち今も尚多くの人達が藤堂高虎に対して抱いている印象そのもののようである。

そして当時藤堂高虎の研究はあまりされておらず「殆ど資料が残っていなかった」そうだ。つまり司馬遼太郎のバイアスがかかった完全に作り上げられた史実に基づかない高虎を司馬遼太郎は書いたのである。

まずその事が憎いのだそうだ。

そして何よりも文章が上手い。読ませる。

その事が憎いのだそうだ。

さて歴史の大家藤田先生の言葉を借りれば「直江兼続のようなどうでも良いようなキャラクターが取り上げられ大河になるぐらいなら高虎はとっくにドラマになっていて良いはずの人物」だという。

今我々が知っている高虎像はあまりにもゆがめられ、かつ情報は少ない。

しかし本当に藤堂高虎が司馬遼太郎の言う風見鶏で裏切り者で、理念も思想も無く利益追求型のエゴイスティックで身勝手な大名なのだとしたら、


  • 大坂の陣において一番重要な先鋒隊が4天王と呼ばれる酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政ではなく何故高虎だったのか。
  • 外様でありながら32二万石という大きな石高の領地をお家の取りつぶしも無く明治維新までの長きにわたってたもつことができたのは何故か。



  • 臨終に際して息子である秀忠よりも先に高虎を枕元に呼んだ理由は。


これらの疑問に説明がつくだろうか?

そしてもし、今我々がちまたで聞く藤堂高虎のイメージが本当に司馬遼太郎の偏見に満ちた創作だったとして、誇るべき真の姿が他にあったとするのなら、我々特に津市の市民として本来誇るべき我らの街を作った街の祖を理不尽に蔑視していたことにはならないか?
本来なら我々こそが謝った高虎像をだたし、誇るべき藩主として擁護すべきでは無いのか?

どうだろう、是非いちど冒頭に紹介した書籍、拝読いただき皆さんの「知っている高虎像」をぶちこわしてみないか?

おそらく多く発見することがあるだろう。

190センチで100キロの巨漢で戦闘に優れ、茶を初めとする文化にも長け、城作りに関しては自ら図面を引くことすら出来たマルチタレントだった高虎。名家ではありながら没落の憂き目にさらされた家に生まれ葛藤の青年期を送るも、ついには家康から最も信頼される男にまで上り詰めた成功者。今の我々が多く学ぶことがあるのではないだろうか。

 藤田先生の資料PDF判