2012年4月6日金曜日

へりくだること:卑屈になること

これは凄く難しい。
へりくだることと
卑屈になること
この二つは随分違う。

日本にいると上手く謙る表現をすることはとても大切で、これが出来ないと「高慢なヤツ」 と受け取られる。もちろん「卑屈」との境界線もしっかりあって、卑屈ラインまで下がらない程度に上手く謙る。この辺は多分社会生活を行っていく中で感覚を養って体得して行かなきゃならない技能だと思う。

しかしこのボーダーラインの位置は文化や言語によって随分ちがう、と思う。
だから一端文化の境界を越えると母国語において養ったボーダーラインのバランスが崩れて使い物にならなくなる。

単につい先日通訳をしたから、その事からのフィードバック何だけど。
つまりアメリカ人と日本人との会話の間に入って、日本語を英語に直した時。

アメリカからの「トモダチ作戦」の事への謝辞だったりとか、もちろん良いことだし、他にも色々あるんだけど、
ことさらこの「謝辞」だけを繰り返すと、アメリカ人側からの受け取り方としては
単純な謝意から「上目遣いの物乞い」的な方向へだんだんずれていく。

これは通訳されている人達には多分分からない。
発言から受ける印象の差異は同じ日本語を使っていてもおこる事象。
これは場合によっては再コンタクトで修正されたり色々補正される要素はあるんだけど
通訳を通しているとこれが中々行われない。フィードバックがどうしても通訳を会してのことになるので被直接的だから、なんだとおもう。

この辺のバランスは「とっても」難しい。

ただ日本人として通訳をしていて、また自分の意見で発言できない立場である為に余計、こんな会話を繰り返しているから相変わらず「占領国対属国」の関係を脱却できないのかもな・・・と思った。

特に「自信」というものを重視する文化の連中なんで、謙りすぎると自信のないやつに写る。
喋ってる当人はそんなとらえ方をされるなんて意識していないはずだし、通訳である以上それを言えないだけに中々歯がゆい。

仮にその事を伝えたところで随分憤慨するだろうし、多分理解されないだろう。
結局の所通訳を介さないでもある程度雰囲気だけでも認識できる人達にとって変わっていかないといけないんだろうな・・・と思っただけ。